東松山 長久寺について

東松山 長久寺
本寺院は、愛知県愛西市(旧八開村)にある浄土真宗大谷派の寺院です。

〇本尊

 阿弥陀如来(立像六〇㎝)

 

〇由来

 往古、松山中島高畑村に本多長久なる者あり手西杉山大和寺と東松山長久寺の両院を創立し、天台宗に属す。しかし、その創建年代については詳細を知ることができない。僅かに府志にのみ天正年間(一五七三~九二)ではなかろうかと記している。その後、両寺とも衰退を続けていたが、寛永一三年(一六三六)僧善明によって再興され、本願寺宣如上人より本尊その他を賜わり、一向宗東派(真宗東本願寺派)即ち現在の真宗大谷派に改めた。また大和寺はその後廃絶し、僅かに杉ノ宮という旧跡を遺すのみである。
 当山の中興開基、善明は甲斐源氏の子孫といわれ、同地方の豪族であったという。 天正年間、善明は武田信玄に仕え、禄高千五百石を賜わり、伯耆守に任ぜられ秋山姓を名乗ったが、武田家滅亡後は世を哀れみて遁世、僧侶となり当地に来たりて当寺に住み、両寺の再興を果たした人物である 当地に来たり長男虎之助は、藩祖徳川義直公(源敬公)に仕え禄高三百石を賜わり献勤するも嗣子なきため断絶し、母姉は善明の許に寄寓したという。源敬公は虎之助の生前の功績をたたえて、遺族生存中年五〇石を与えたと寺伝にある。こうした由縁から、家康公よりの朱印、源敬よりの黒院を賜わったと思考する。
 以来、連綿と世襲され今日を迎えている。

 

〇歴代住職

 開基本多長久 中興開基善明(享保五年二月二日寂)。
 二世学山は善明の次男で仏学に秀で雄弁であった。特に心のこもった説教が著名で聴衆はいつも堂を一称にしたという。尾張分家、美濃高須藩三万石の藩主松平摂津守も師の徳を慕い帰依し、当寺をたびたび訪れ教えを受けたという。真筆にて親鸞の影像を写し賜ふ、其の時の歌「東なる松の山寺ことふりて、名も高畑の寿命長久」右即興に号せられる。「菊縁の三つ葉葵御紋」を賜わる。それまでは三つ葉立葵(本多家紋)であった。また尾張藩主の母である梅昌院もしばしば当寺を訪れし折、苦楽物語なる書を奉ずれば其の時「葵御紋附桃灯袈裟白帷子」など賜わり、此等の由を以て崇厳院殿御位牌と梅昌院殿御位牌を当寺に安置す。宝永四年(一七〇七)前記摂津守の上京に際して懇望され、随従して三年間藩邸内に起居し、子弟家臣の教育に専念した。
 師はまた詩歌、俳句に親しみ、日宿、其角,嵐雪との厚い交遊もあり、常に句会を共にしたと伝う。こうした貴重な文献も二度の火災によって焼失、誠に遺憾である。
 老後は壇信徒の教化に日々を過ごすも病に倒れ、享保五年(一七二〇)六月二一日寂した
 三世法林(頓瑞)は学山の長男で、布教に生きた父の留守を守った篤実の住職。明和八年(一七七一)九月一〇日寂。
 四世円海は頓瑞の長男で、七三歳の時、長男円雅(五世)が寂したため、八歳の孫寂賀(六世)を養育するは勿論再び寺務に七年従事した。文化九年(一八一二)七月三日八〇歳で寂した
 五世円雅(文化三年三月四日寂四三歳) 六世寂雅は前述の如く祖父の養育によって成人。その性豪放であったという。また酒豪で、和歌を趣味としたとある。度重なる天災その他にも平然として沈着なる行動をとられたと伝え、その正義心は強く壇信徒の信頼は勿論のこと、高須侯も深くその性を愛し、仏需両学を学んだといわれている。六七歳の時、病いのため死期の近きを知り檀徒に対して遺訓教章を遺した。
 本願寺嗣溝、正定院制心老師は、その寿像に賛して次の如き詩文を遺している。
 不幸喪父八歳時 震水火災幾相羅 雖然
二諦不曽解 潜心篤志日孜々 俗則建立若干宇 直則弘法伝大悲 教訓子孫以努力
子孫成業誰不知 就中嗣法結説法 石亦動頭人翁頤 蕫席六〇有一歳 功成名遂自無力 応相公賜金褒賞 大法主亦歎痛之 今
年六〇有七歳 昕夕称名最虔祗 身在穢界心浄土 知君何侍阿弥物 慶応元年一一月二九日寂
 七世智鏡は孝心厚き人物で仏法に秀で法話会開くや門徒は常に堂に溢れたという。その生涯は常に布教にあり、七男一女は賢夫人と今に伝える妻女の訓育の成果といわれている。明治二二年八月四日寂六一歳。長男智養は六歳で法談なし一〇歳にして四書五経を教えたという。蟹江法蓮寺住職はその才能を深く愛し後継者とした。師は親授布教師、名古屋監獄教誨師などを努め、刑余者の更正のため保護会を組織すべく献身し、その設立を果たした。四二歳で早逝。 八世智山は在任中、庫裡、書院、鐘楼などを改築し、寺容整備に努力した。亦、書道をよくし、その能筆は著名。尚、茶道を趣味とし、後年師範として多くの弟子があった。智鏡の二男である。三男智旭は新潟県中蒲原郡白根町の正立寺を再興。五男智淳は瀬戸市唯一の真宗寺院、紫雲山法雲寺の開基である。

 九世学山は智山の次男として出生。布教の一生であった。しかし多彩な趣味を持ち相馬御風とも親交があった。その頃の文書は多く遺されている。昭和七年七月二五日三七歳で寂した。
 十世善明は先代学山の実弟で、のち岐阜県(大和田(おわだ) 応声寺(おうしょうじ))の寺院の後継者となった。

 一一世智学は大正一三年一月一日九世学山の長男として出生。九歳にして本山得度し、昭和一四年当山住職に就任した。師は旧制尾張中学を経て真宗専門学校を卒業、研究科に在学中大東亜戦争に参加、戦後同朋会館、総会所に出講、布教師として後進の指導に尽力する。現在も寺務の傍ら全国を布教し、人心衰微の世界の一灯として献身されている。
 一二世現住職である智見は智学の長男として昭和二六年八月六日当寺において出生。一三の時本山において得度、大谷大学及び同大学院修士課程を卒業後、中学校へ奉職した後、現住職となる。

〇年中行事

一月報恩講。

三月下旬春季彼岸会。

四月春季永代経。

八月下旬秋季永代経。

九月下旬秋季彼岸会。

その他。毎週土曜日と夏休み一ヶ月,子供会読経会を開催。


浄土真宗 大谷派
東松山 長久寺
愛知県愛西市高畑町

toshozanchokyuji@gmail.com
℡0567-37-1369